やおよろずを辿るα版
天智天皇(狩野探幽『百人一首画帖』)
絵:天智天皇(狩野探幽『百人一首画帖』)。狩野探幽、17世紀(Public domain)出どころ

天智天皇

読み
てんじてんのう
日本書紀
越年称元
別名・社での呼び名
中大兄皇子/葛城皇子
系譜
人神
舒明天皇

天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう 、推古天皇34年〈626年〉- 天智天皇10年12月3日〈672年1月7日〉)は、日本の第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日〈668年2月20日〉- 天智天皇10年12月3日〈672年1月7日〉、※斉明天皇6年7月24日〈661年8月24日〉より称制)。 幼名は葛城皇子(かずらぎのおうじ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた称号で、「中大兄」は異母兄古人大兄皇子に次ぐ「2番目の大兄」を意味する。 母・皇極天皇の皇太子であった時期に中臣鎌足らとともに乙巳の変で蘇我入鹿らを殺害し、直後に即位した叔父・孝徳天皇のもとで大化の改新を推進した。皇極天皇が重祚した斉明天皇の治世でも皇太子として漏刻(水時計)の設置などの改革を推進し、自ら即位した後も初の全国的戸籍「庚午年籍」を作らせるなど律令国家への足固めを行った。近江令を制定したとされるが、否定説も有力である。 皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。 跡を継いだ弘文天皇が壬申の乱で敗れた後、一時弟・天武天皇の系統に皇位が移るが、孫にあたる光仁天皇の即位以降は現在に至るまで天智天皇の男系子孫によって皇位が継承されている。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。

出どころ: ウィキペディア「天智天皇」CC BY-SA 4.0)。記事の冒頭の要約。

祀る神社1社

社の頁はかみを祀るにあります。主祭神にこの神の名を挙げる社だけ。